“Truth is what your contemporaries let you get away with saying.”
— Richard Rorty, *Contingency, Irony, and Solidarity*, 1989.
芸術表現において、意味を探すことは不可避の反応である。それは知覚対象を秩序化し、可視化可能な構造へと変換する行為である。しかし、この変換は中立的ではない。意味を付与することは、作品を制度的言語の内部に位置づける操作であり、同時にその運動性を規定しうる。
そのうえで、語りの制度化は、表現の一義的な輪郭化を促進する。とりわけ展示空間において、語りは翻訳を前提とし、その翻訳は制度的可読性に基づいて行われる。翻訳とは媒介であると同時に、構造の再設計でもある。制度的構成の中で翻訳される意図は、原初の強度を維持することが難しい。ここに制度的可視化が孕む暴力性がある。
展示空間はこの翻訳の物理的場として機能する。作品は見せられるために構成され、語りは提示される形式として編集される。表現のうちに残る断片性、不完全性、関係の未形成性は、展示のフォーマットにおいてしばしば過剰に意味化されるか、逆に無視されることで制度に吸収される。
展示によって明確化された語りは、観者の解釈フレーム内に組み込まれ、その潜在的な揺らぎや葛藤を失う。したがって、語ることが制度にとって不可欠である限り、語られる内容はあらかじめ翻訳可能性を求められる。
語りは、他者に開かれる契機であると同時に、制度に適合させられる構成要素でもある。これにより、語られた意図は本来の不確定性を失い、管理可能な表象へと変化する。語ることにはつねに再構成の力が作用しており、制度的配置から逃れることは困難である。
一方で、「曖昧な意図」は、しばしばその不明瞭さゆえに開かれた表現とみなされるが、その曖昧さ自体が制度内でコード化されることで、かえって制度の言語に回収されるリスクがある。曖昧であることは制度にとっても扱いやすい。曖昧さは誤読を誘発せず、解釈の自由という名のもとに包摂される。
こうした構造の中で、「語られないこと」は抵抗ではなく、むしろ制度にとって中立的な選択肢として消費されうる。
ここで問われるべきは、「語られることが避けられない状況において、どのように語り得ないものを保持できるか」である。語ることを拒否するのではなく、語られることによって損なわれる構造そのものを露出させることが、ひとつの批評的契機となる。
表現が制度に適合することなく、制度の論理を利用しながらも逸脱の余白を保持するためには、語りを形式としてではなく、構造の裂け目として運用する必要がある。とはいえ、語り得ないもの、あるいは語った途端に消滅するような位相にある意図は、制度の枠内では常に排除か誤読の対象となる。
それでもなお、それを配置し続けるためには、制度への完全な適合を避けながらも、その内部にとどまり、応答の契機を維持する必要がある。この選択は戦略ではなく、関係性における倫理的態度である。語られないことでしか成立しえない関係もまた、表現における重要な構造の一部である。
そのような視点から見ると、この展覧会は、制度の内部に配置されながらも、制度の論理に全面的には回収されない要素を試みている。
加えて、表現が制度的に翻訳される構造の中で、あえてその翻訳を不鮮明なままに保つ身ぶりもまた、別の批評性を持ちうる。明確に語られることを回避し、小さな違和や感覚のズレとして制度に参加すること。それは、制度を批判するのではなく、制度の縁を撹乱する実践である。
意味を生産する装置としての展示において、意味のずれや過小な表現が意図せず立ち現れるとき、制度的整流化に対する微細な揺らぎが生まれる。
制度の外部は、制度の内側を通してしか構成されない。したがって、本展が問うのは、制度批判の外部ではなく、制度における不可視の境界である。その境界に配置される語りとは何か。その語りがいかに制度の整流化を拒みながら、なお言語として成り立ちうるのか。その問いが、語られなかったもののために開かれている。